TSUTAYAの半額キャンペーンにて鑑賞。ハリウッドのリメイクじゃなくて、オリジナルの韓国版。
実はサッカーの映画だと思いこんでいたという、嘘のようなホントの話。
- 出版社/メーカー: 松竹ホームビデオ
- 発売日: 2007/11/28
- メディア: DVD
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ジャック・フィニィ「愛の手紙」のように、手紙だけ(だけじゃないけど、ま、いいや)が行き来する。隔てられた時はわずか二年。会おうと思えば会えそうな時間(実際一方的には会うことも出来ているし)。この微妙さ加減も、意外にくすぐってくれる。どうしようもないもどかしいほどの切なさは犠牲になる代わりに、ほのぼのと通い合う情感が伝わりやすいようだ。
何よりも映像の美しさが実に素晴らしい。オープニング・ロールの映像から心惹かれた。スタイリッシュでありながらも、実にしっとりとした映像で、ピュアでファンタジック。日本で云えば、岩井俊二に近く感じられる。
ストーリーとして特別に突き抜けてはいないけれど、ロマンチックにまとまった、目にもハートにも心地良い小品。
ラストに関しては、勿論これはこれで良いのだけど、三通りの選択があったんじゃないかと思ってしまった。この考察については、ネタバレになるので、続きから。
映画「イルマーレ」のラストシーンに関しての完全ネタバレです。注意。
このラストシーン、映画としての映像という意味合いにおいては、ベストの解答だと云うことは納得する。
しかし、もし自分だったらあの時点で会いに行けるだろうかと考えると、その答は「NO」である。
自分にとっては彼女との日々が形成されていて気持ちが高まっているのに、彼女にはその時点で一切何もないのだ。あの日々を通じて育まれたはずのものが、全く何もないのだ。彼女は不思議を一度も体験していない。
それで信じて貰えると期待できるだろうか? いや、百歩譲って彼女が信じてくれたとしよう。自分自身の筆跡としか思えない手紙の数々によって。しかし、だとしても、それは理性的な理解に過ぎない。そこに感情など付いてくるはずはないのだ。あの日々でつながった想いなど、その日々無くして彼女に芽生えるはずも無かろう。
答は明らかだ。私なら決して会いに行けない。
だとすれば、どうするかと考えると、自分ならば選択肢は一つしかないと思う。
「会う約束をした日」、まず間違いなくその日に私は会いに行く。二年も待ったんだもの、それくらいの日々は待てるだろう。その時には彼女も会えることを楽しみにしてくれているわけだから。ここでホントに時が満ちていると思う。その時になら、彼女が自分を救ってくれたことも、告げることが出来たろう。
自分に選択肢があるならばそれで決まりなのだけど、実は映画的にはもう一つの選択肢も考えられる。
彼女が最後の手紙をポストに入れて泣きじゃくるシーンの後、そこで登場するという選択肢は「あり」だと思うのだ。それは心理的な意味合いではなく、「時間物としての処理」の一つの方法論として。
時間の解釈の仕方はそれこそ幾らでもあるのだが、そのうちの一つを持ち出せば、これは必然的にそうなると言い訳することが出来る。何故なら彼女がその手紙を入れるまでは、彼は登場することが出来ないのだから。何故かは明白。だって、死んでたんだから。
彼女がこの最後の手紙を入れることで初めて、彼は死を回避することが出来たのだ。だからそれまでは決して彼は登場することが出来なかった。ね、なんとなく理屈は通るっしょ。だけど、どういう時間の解釈なんだって、深く突っ込んじゃダメだぞ。
ま、本作の場合、時間の概念の解釈など一切語られていないわけだから、突然こういう小理屈こねくり回すわけにはいかないんだけどね。
ってことで、さて、一種のお遊びみたいなものだったんだけど、ラストに関しての三つの選択肢、どうだったでしょうか?
映画としては1、現実としては2、SFとしては3、自分的にはそんな感じの選択肢なのかな。